Rickson Gracie says it’s ‘hard for people to deny’ his 450-0 record, reveals the one ‘epic fight’ that got away (@guicruzzz) https://t.co/3d8RSBABlb pic.twitter.com/F26DCt9BRz
— MMAFighting.com (@MMAFighting) May 30, 2022
Rickson Gracie(Sherdog)
ヒクソン・グレイシーがインタビューで以下のコメント。
「6時間に渡るセミナーを100回以上していた当時、必ず最後に全員を相手にしたが、全て一本勝ちしていた。『誰かトレーニングしたいヤツはいないか?』と言うとみんなやりたがるし、次から次へと極めていった。18歳になってから出場した全てのトーナメントで、階級別も無差別級も全ての試合で一本勝ちし、一度も負けたことがなかった。ルタ・リーブリのトーナメントでも負けたことはなかった」
「ブラジルやアメリカで開催されたサンボのトーナメントでも負けたことはなかった。本当にタフだった男たちとのストリートファイト、プロでの試合、サーファーとのストリートファイト、ルタ・リーブリの選手との戦い、柔術トーナメント、セミナー、その他の状況…私が対戦相手に直面するたびに、一本勝ちしていきた。ポイントで勝ったことはない。そして、ざっと数えると少なくとも450戦はしているので、それを自分の記録として設定した」
「私はMMAの試合をしたことはなかった。バーリ・トゥードだった。私のMMAファイトの中にはラウンド制もあり、10分だったり15分だったり5分だったこともあったが、ラウンド数はどちらかが負けるまで無制限だった。それ以外に勝敗を決めるルールはなかった。勝者の手を挙げるジャッジも居なかったこともあった。どちらかが試合に勝つし、それは(現在の)MMAのルールとは違う」
「少なく見積もっても450戦だと思ってる。その倍ぐらいあってもおかしくないし、それを否定することは難しい。見ている人は見ている。見てない人は、残念ながらそこまで遡った映像はYouTubeにもない」
「ウゴ・デュアルチとの2度の戦いは忘れられない。1度目はビーチ、2度目は道場で戦った偉大なファイターだ。公式戦ではないが、彼のようなタフなプロフェッショナルは、自分の実力を試した相手として外せない。私は何度か自分の柔術を見せることに成功した。紙の上では少なくとも450戦と言われれば満足できるが、1000戦と言われても問題ないし、そうすればもっと満足できるだろう」
「もう戦う必要はないだろう。もう競争をする段階は過ぎている。(Sherdogの記録に残っている)これら11試合は私のキャリアを物語っている。ズールとの初戦はMMAではなくバーリ・トゥードだと思っていた。当時は19歳だった。最後の試合だった船木誠勝戦は40歳だったので、約20年間のハイパフォーマンスなキャリアがそこに含まれている。それは、多くの成功、プレッシャー、ストレス、感情のコントロール、そして呼吸だった。最終的には笑顔でここにいられる」
「時系列で言えば、実現するべきだったのにしなかった試合は桜庭和志戦だけだった。彼は絶好調だったし、私は『コロシアム 2000』で勝ったばかりだった時に日本のテレビ局から大金のオファーがあった。桜庭はベストな時期でグレイシー・キラーと言われていたし、私は船木を倒していたので、実現すれば壮大な戦いになっただろう」
「残念ながら、交渉を始めてから1ヵ月後に息子(ハクソン・グレイシー)が亡くなり事態は後退し始め、試合は私の中で優先事項では無くなった。家族にとっては悲劇だし、無力さを感じ、嫌な気分になるだろう。だから、私は試合をキャンセルして、リーダーとして子供たちのために、乳母として、父親として、友人として、この危機を乗り越えるために一緒に痛みを乗り越えていくことにした」
「すると、桜庭がヴァンダレイ・シウバに敗れて勢いを失い始めた。そして、私が個人的な悲劇から立ち直ってきた時に、彼らはこの試合をするために、当初の提示額の3分の1すら支払うつもりが無くなっていた」
「彼は、私が戦うことができずに喉の詰まりを感じている唯一の男であり、実現する前に戦う意味を失った。しかし、私は彼に勝つ自信を持っていた。彼は非常にタフで、あの時点で非常に重要だったので、本当に見てて面白い試合になっただろう。しかし、それは空想で終わってしまった」
交渉していた時期はかなり長かったはず
その時点で逃げているとしか思えなかった
負けたら終わりですからね
もういいですよ
結局アメリカでは知名度無いし、日本人インタビュアーに「俺は強かった」節を延々と語るって、もう何度も聞いてるよ。